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笠置シヅ子の生い立ちは?宝塚に落ちた!ヒロポン使用は本当?ジャズ歌手から女優!未婚の母の道へ!

朝ドラ「ブギウギ」で話題の笠置シヅ子さん。

壮絶な生い立ちに注目が集まっています。

今回は笠置シヅ子さんの出生から、

ジャズ歌手、女優として成功するまでの

生い立ちを調べてみました。

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目次

笠置シヅ子の生い立ちは?

複雑な出生


https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%AC%A0%E7%BD%AE%E3%82%B7%E3%83%85%E5%AD%90

出生名:亀井静子
別名:三笠静子、笠置シズ子(かさぎ シヅこ)
生誕:1914年8月25日
出身地:香川県大川郡相生村
死没:1985年3月30日(70歳没)

香川の相生村で誕生した笠置シヅ子さん。

彼女の出生には複雑な事情がありました。

非嫡出子として生まれる

実父:香川・相生村の素封家(大金持ち)の息子
実母:素封家で家事見習いをしていた女性

笠置シヅ子さんの両親は、

このような間柄だったそうです。

両親は結婚しておらず、

笠置シヅ子さんは非嫡出子でした。

非嫡出子(ひちゃくしゅつし)とは、結婚していない男女の間に生まれた子のこと

笠置シヅ子さんが生まれた後すぐに実父が死去。

まだ18歳か19歳だったという実母は、

実家へ戻り笠置シヅ子さんを育てることになります。

養女になり大阪へ

実家へ戻った実母と笠置シヅ子さん。

しかし実母は母乳の出が悪かったため、

出産で大阪から里帰りしていた亀井うめという近所の女性から

貰い乳をしたそうです。

貰い乳(もらいちち)とは、
母乳が出ないとき場合、他の女性から乳をもらって子に飲ませること。
農村部では母乳が出ない時は、出る人から貰い乳をすることが普通だったそうです。

うめという女性は、

・地元で工場を経営する資産家の娘
・夫の亀井音吉は大阪で米屋、薪炭商を営んでいた(その後、米屋から銭湯に転業)

このような人物だったそうです。

愛情深いうめは次第にシヅ子に情が移り、

シヅ子もうめを実の母のように慕うようになったそうです。

そして生後半年でシヅ子さんはうめの養女になります。

実母はまだ若いこともあり、

親たちもシヅ子さんを手放すことをすすめたそうです。

シヅ子は亀井音吉夫妻が暮らす大阪へ。

亀井音吉夫妻の愛情を受けて、

大阪で元気に育ったといいます。

17歳で出生の秘密を知る

亀井音吉夫妻の娘として育ったシヅ子さん。

自分の出生の秘密を知ったのは17歳の頃でした。

香川で実母と対面しますが、

実母は「お守りをした」といい、

生みの親だと名乗らなかったと言われています。

シヅ子さんはそんな実母を見て、

娘だとは名乗らずに帰ってきたといいます。

その後シヅ子さんが実母に会うことはなかったそうです。

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13歳で宝塚に落ちる

芸事が好きだった養父母は、

シヅ子さんが幼い頃から日本舞踊などを習わせたそうです。

養父が営む銭湯の脱衣所で、

歌や踊りを披露するシヅ子さんは、

近所の人気者だったそうです。

小学校卒業後は宝塚音楽歌劇学校を受験しますが、

残念ながら不合格。

歌と踊りは抜群だったのですが、

身長が低く華奢な体型が原因で不合格になったそうです。

松竹でリベンジ

宝塚を見返えしたいシヅ子さんは

「松竹楽劇部生徒養成所」に合格し、

初舞台を経験。

  • 誰が休んでも代役ができるようにセリフを全部覚える
  • 面白い顔のメイクをして舞台を駆け回る
  • 3枚目のおどけた役を熱演する

このように芸に打ち込み奮闘した結果、

大阪松竹楽劇の看板スターになりました。

服部良一との出会い


出典:Wikipedia

大阪で人気者となったシヅ子さんは

東京に進出した「松竹歌劇団」に移籍。

23歳で、東京進出を果たします。

そこで出会ったのが、

彼女の人生を大きく変える服部良一さんでした。

服部良一は昭和の日本の歌謡界を代表する作曲家。
笠置シヅ子の楽曲をはじめ、
「別れのブルース」(淡谷のり子)「銀座カンカン娘」(高峰秀子)など、
現在も親しまれている曲を多数生み出しました。

「大阪の歌姫」という評判を聞いていた服部さんは、

期待して彼女に会ったといいます。

しかし現れたのは下がり眉の貧相な女の子。

服部さんはガッカリしたそうです。

しかし舞台稽古が始まると一変。

迫力あるパフォーマンスに圧倒されたといいます。

動きの派手さとスイング感は、
他の少女歌劇出身の女の子たちとは別格だと感じた。
なるほど、これが世間で騒いでいた歌手かと納得した。

と後に語っています。

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ジャズ歌手は取り締まりの対象に

作曲家・服部良一と組み、

ジャズ歌手として活躍するシヅ子さん。

「スイングの女王」と呼ばれ、

彼女の歌声は絶賛されました。

しかしその頃日本は戦時体制。

反米感情が増す中、ジャズは敵性音楽とされ、

シヅ子さんの活動の場は減少してしまいます


https://guchini3.exblog.jp/30115536/

「贅沢は敵だ」がスローガンの時代の中で、

派手な化粧と衣装で華やかに踊るシヅ子さんは、

警察から睨まれる存在になってしまいました。

ヒロポン使用が噂される

戦中戦後の芸能界に蔓延していたというヒロポン(覚醒剤)。

笠置シヅ子さんもヒロポンを常用していたとされる芸能人の一人です。

ヒロポンとは、
大日本製薬から市販されていたメタンフェタミン系の向精神薬(精神刺激薬・覚醒剤)。
戦中に夜間作業をする兵員や作業者の作業効率低下を防ぐために乱用され、
戦後に軍から民間に流れ、中毒者が増加したと言われています。

1948年には医療目的以外の所持、使用は禁止されました。

ヒロポンは覚醒剤ではありますが、

当時は合法なものだったのですね。

シヅ子さんの魅力はハイテンションなパフォーマンスです。

しかし、

ヒロポン中毒者だから尋常ではないハイテンションなのではないか

と噂されていたようです。

  • 「ラッパと娘」の音程が不安定
  • 「ホームラン・ブギ」の歌唱中に勢いあまって客席に転落
  • 「買物ブギー」で履いていた下駄がいつも真二つに割れてしまう

シヅ子さんのこのような行動は、

ヒロポンの影響ではないかという意見もあるようです。

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29歳で恋に落ちる


https://columbia.jp/artist-info/kasagi/prof.html

ジャズ歌手として活動が制限される日々が続く中、

シヅ子さんは名古屋の劇場で、

吉本穎右(よしもとえいすけ)さんと出会います。

シヅ子さんの大ファンだという頴右さんは、

一目見てシヅ子さんに恋をしたといいます。

シヅ子さんもまた、

イケメンの穎右さんを見てすぐに

恋に落ちたそうです。

吉本興業の跡取り息子

吉本穎右は、

吉本興業の創業者・吉本せいの息子

シヅ子の9歳下の21歳、学生でした。

燃えるような恋をしたシヅ子さんと穎右さん。

空襲の恐怖に怯えながらも、
彼と過ごした時間は、
わが生涯最良の日々

だったと後に語っています。

結婚は叶わず

燃えるような激しい恋に落ちた二人でしたが、

母・せいは二人の関係を認めず、

結婚することはありませんでした。

未婚の母の道へ

https://www.nikkei.com/article/DGXMZO52173310U9A111C1AA1P00/

もともと病弱だった穎右さんは、

22歳で結核に侵されてしまいます。

病状が悪化した1947年1月、

実家で療養することになったそうです。

この時シヅ子さんは穎右さんの子を妊娠していました。

東京駅で穎右さんを見送った時が、

二人の最後の時間となったそうです。

穎右さんはその後1947年5月19日に死去。

訃報を伝えられたシヅ子さんは、

悲しみのどん底の中、6月1日に女児を出産。

子どもに“エイ子”と名付けてほしい

という穎右さんの言葉通り、

エイ子と名付けたそうです。

未婚の母としてステージに立つ

https://maxanarchy.jp/shizuko-kasagi-lifetime/

悲嘆のどん底にいたシヅ子さん。

本当は穎右さんと結婚し、

芸能界を引退するつもりだったとも言われています。

しかしシヅ子さんは、

愛する穎右さんとの子を守るために、

芸能界にカムバックすることを決意します。

右さん側の実家から一切援助を受けず、

再び舞台に立ったそうです。

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東京ブギウギで戦後のスターに

https://tkj.jp/book/?cd=TD046734

未婚の母となったシヅ子さんは

幕間に授乳しながら歌い続けました。

そんな健気な姿を見た服部良一さんは、

苦境を吹き飛ばすような思い切り明るい曲を歌わせたい

と思ったそうです。

そして作曲したのが「東京ブギウギ」(1947年)でした。

1945年に敗戦し焼け野原になった日本。

飢えずに生きていくことだけで精一杯の中、

「東京ブギウギ」の底抜けの陽気なメロディーは

人々を熱狂させ空前の大ヒットに。

笠置シヅ子は戦後のスーパースターとなり、

見事カムバックを果たしたのでした。

歌手を辞めて女優業に専念

「東京ブギウギ」の大ヒットに続き、

「大阪ブギウギ」
「買物ブギ」

なども人気を博し、

「ブギの女王」と呼ばれるまでになったシヅ子さん。

しかしその後しだいにブギ人気は低下。

そんな中シヅ子さんは、

歌手を廃業し女優業に専念することを宣言します。

突然の女優転身発言について、

観客を満足させるパフォーマンスができなくなったから

育児を優先させるため

などの憶測が飛び交ったそうです。

しかし後にご本人がテレビ番組などで、

自分の一番いい時代を自ら汚す必要は無いと思った

と仰っています。

ブギの女王としての全盛期を

そのまま残しておきたいという気持ちが強かったのですね。

ギャラを下げる交渉をした?

イラスト

女優として再スタートを切ったシヅ子さんは、

なんとテレビ局や映画会社などに、

ギャラを下げる交渉をしたそうです。

私はこれから一人で娘を育てていかなければならない
スター・笠置シヅ子のギャラでは使ってもらえないから、
ギャラを下げてください

とお願いしたといいます。

シヅ子さんの誠実さや謙虚さ、

母としての強さが感じられるエピソードですね。

その後シヅ子さんは、

様々なドラマや映画に出演。

大阪弁を生かしたコミカルな演技で、

女優としても唯一無二の存在感を放ち、

人々を魅了しました。

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まとめ

壮絶な人生を送られてきた笠置シヅ子さん。

戦前戦後の時代を生き抜き、

芸と向き合い続けた姿に驚きました。

このような生い立ちを知ってから彼女の曲を聞くと、

よりドラマティックに聞こえますね。

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笠置シヅ子の生い立ちはジャズ歌手から女優に!未婚の母の道と晩年の生活は

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