「光GENJI」といえばジャニーズの中で、
最も爆発的に売れたグループと言われています。
その中でセンターを務めてやんちゃ全開だった諸星和己さん。
女性関係も派手だったと言われています。
諸星さんが生まれ育ってからデビューへの経歴と、
やんちゃだったエピソードを振り返ってみたいと思います。

諸星和己のデビューまでの経歴
時系列とプロフィール
命名は祖母
ジャニー喜多川さんに出会う
デビュー曲『STAR LIGHT』
- 「光GENJI SUPER 5」に改名する
- 大沢樹生、佐藤寛之脱退
- ジャニーズ事務所を脱退
- 個人事務所「株式会社GOLD RUSH K」を設立
ハワイと日本を行き来する生活
本名:諸星 和己(もろほし かずみ)
生年月日:1970年8月12日
年齢:50歳
出身:静岡県富士市出身
血液型:A型
身長:168㎝
体重:58kg
兄弟:1歳上に兄、1歳下に妹
好きなタイプ:か弱い外見、不思議な性格の女性
所属事務所:スターズクルー(個人事務所)
取得: 英検二級、スクーバダイビングライセンス、自動二輪免許、普通自動車第一種免許、一級小型船舶操縦免許
静岡県で生まれ育った

静岡県にて諸星家の次男として2,980グラムで誕生、
「和己(かずみ)」という名前は祖母がつけた名前です。
両親が米屋をしていましたがあまり裕福ではなく、
祖父母の家で暮らし育てられたそうです。
そして子どもの頃に両親が離婚をしています。
諸星さんは母に引き取られ家族はバラバラになりました。

仮面ライダーが大好だった幼少時代、
いたずらがひどくて幼稚園を辞めさせられたくらい、
やんちゃなガキ大将だったそうです。
小学校3年生の時に少年野球のチームに入団して、
英語もこの頃に習い始めました。
小学校時代から女子にモテモテで、
バレンタインに紙袋2個分のチョコを貰った過去があり、
この頃からモテ人生が始まっていたんですね。
中学は富士市立吉原北中学校

富士市立吉原北中学校に入学した諸星さんは、
野球部に所属してポジションは1番サードでした。
なんと中学時代の諸星さんは成績優秀で、
ほとんどの教科が4か5で英語は3年間オール5、
中2の時にテストで240人中6位になったそうです。

かっこよくてやんちゃで頭が良い中学生、
モテないわけがないです。
しかしやんちゃは変わらなかったようで、
あだ名は「要注意人物」でした。
中学2年生の13歳の頃原宿の「竹の子族」を見るために、
男女混合の友達5人グループで家出をして上京をしました。
高校は静岡県立吉原工業高等学校

静岡県立吉原工業高等学校 に入学しましたが、
1年生の5月で中退をしています。
在学した2ヶ月間は野球部に所属をしていたそうです。
吉原工業高等学校は偏差値44の公立の工業高校で、
男子生徒が全体の約80%をしめています。
やんちゃだった諸星さんは地元の暴走族で有名なチーム、
「吉原連合 爆霊一族 MADONNA」の集会に参加していたと言われています。
犬に噛まれてジャニー喜多川に出会う

友達と一緒に東京に家出をしてきた諸星さんは、
代々木公園脇の歩道橋の下で野宿して5日ほど過ごしました。
原宿駅前でポケットティッシュ目当てでウロウロしていたところ、
諸星さんは近くにいた犬に手を噛まれてしまいます。
その犬とはジャニーズの近藤真彦さんの飼い犬でポメラニアンの「ラム」、
その犬を散歩していたのはジャニー喜多川さんでした。

ジャニーさんは諸星さんへの被害を気にして、
何かあったらここに電話するように
と言って薄い木の板で作られた名刺を渡したそうです。
その後諸星さんは上京してきた友達とはぐれてしまい、
所持金は1200円で静岡に帰ることもできない状態になります。
諸星さんは名刺をくれたジャニーさんのことを思い出し、
犬に噛まれたことを理由に帰りの電車賃を援助してもらおうと電話をします。
近くに合宿所があるから来るように
ジャニーさんは近くの合宿所へと諸星さんを呼びました。
- 当時合宿所には田原俊彦、近藤真彦、少年隊、男闘呼組らがいた
- ジャニーズJr.時代には近藤真彦の付き人を経験

ジャニーズ事務所へ入所

これをきっかけに諸星さんは夏休みも上京して合宿所で過ごし、
男闘呼組の前々身にあたるプライベートバンド、
「でたらめロックバンド」にもリズムギターで参加。
しかしその後諸星さんはしばらく合宿所には行かなくなっていました。
中学3年生になった1985年の春から再びジャニーズJr.として
毎週上京してダンスレッスンを受けるようになります。

1986年に音楽バラエティ番組「アイドル花組おとこ組」に出演し、
これをきっかけに正式にジャニーズ事務所に入所をしました。
ジャニーさんからローラースケートのレッスンに誘われたJr.メンバー、
そこから諸星さんは選抜メンバーに選ばれグループを組むことになります。

光GENJIのメンバーとしてデビュー
センターを務めて1番人気!

光GENJIのセンターとして華々しくデビューした諸星和己さん。
イメージカラーは「ピンク」でおしゃべりが得意で、
いつも笑顔で性格が明るくて目立ちたがり屋、
「かーくん」と呼ばれてグループで1番人気でした。

光GENJIはローラースケートでバク転やバク宙をするのですが、
諸星さんは無茶をしていたのかよく怪我をしていた印象があります。
松葉杖をついて生放送の歌番組に登場したり、
肋骨を骨折して包帯を巻いて出演していたこともありました。
- 骨折した回数は14回
- 骨折の影響で腕が曲がっている
- 胸の骨を折った時は激しい痛みで息が深く吸い込めない状態
- それでもライブや仕事を休まずファンのために頑張り続けた
- 努力家で頑張り屋であることは皆が認めていた
ジャニーズの中でも諸星さんのやんちゃ具合は有名で、
ジャニー喜多川さんからは「少年ヤクザ」
メリー喜多川さんからは「歴代のジャニーズの中で一番のワル」
と呼ばれジャニー喜多川さんのヘソクリもよく盗んでいたそうです。

また諸星さんは放っておくといつまでも喋るため、
黒柳徹子さんが司会の「ザ・ベストテン」では
「喋りすぎマーク」が作られ、
貼られたら以後発言禁止
というルールがありました。
怪我を多くしていたせいで右手が痺れるとのことで、
左手でお箸を持つようになったそうです。
喧嘩早くて有名

喧嘩っ早いといわれていた諸星和己さんには、
いくつかの喧嘩エピソードがあります。
- 1993年12月31日のNHK紅白歌合戦の本番直前の楽屋で、
先輩である少年隊の植草克秀が、諸星の帽子に付いていた
王冠の飾りを勝手に取り外し、帽子に男性器の絵をいたずら描きをした。 - 怒り狂った諸星が植草に飛びかかり、取っ組み合いの大ゲンカになった。
そこで南こうせつ、さだまさし、TUBEの前田亘輝らが仲裁に入ったが、
ケンカは止まらず最終的に北島三郎が仲裁に入った。
これは諸星さんが話したエピソードなのですが、
これについてメンバーの大沢樹生さんに確認したところ、
行動を共にしててそこまでの騒ぎがあったなら僕も知ってて当然だけど、
そんな話は一度も聞いたことが無い。彼が作ったフィクションでしょう。
このように騒動に対して否定をしています。
植草克秀さんもこのエピソードについて、
2013年1月3日放送のTBSラジオ『月刊ニッキ』内で、
ケンカにはなってない
と否定しています。
諸星さんの作り話だったのでしょうか…
- 諸星和己が非常に喧嘩っぱやくて暴力的だったことは事実
- ツアー中にマネージャーへ殴る蹴るの暴行を加えて3人も病院送りにした
- 追いかけてきた白タクシーの運転手をボコボコにした
- これらのエピソードについては事実と大沢樹生が言っていた
女性関係は365股?

光GENJI時代の諸星は「365股だった」というほどに、
毎晩のように原宿の合宿所を抜け出しては、
女性たちに会いに出かけていたといいます。
パパラッチにばれないように後輩を使って、
完璧な対策を練って行動していたそうです
- まず諸星が合宿所からバイクに乗り、
パパラッチを引き連れながらテレビ局まで行く。 - 局の衣裳部屋で待たせていた影武者の後輩に、
自分が着ていた服とヘルメットを渡す。 - そこで後輩はパパラッチを引き連れながら、
バイクでホテルまで行きそのまま一人で宿泊。 - 翌日バイクで合宿所に戻る。
- その間、パパラッチはホテル前でずっと張り込んだまま。
- 一方別の服に着替えた諸星はテレビ局からタクシーで女性の家に行き、
女性とパフパフする。
「パフパフ作戦」と呼ばれ後輩を数人を交代で動かし、
パパラッチを撒いて女性と過ごす作戦が実行されていました。
この作戦に付き合わされた後輩たちは、
先輩だから断れないしかなり大変だったようです。
- バイクに乗れる後輩を「影武者」として4人キープ
- その中の1人は、バイクの免許取りたてだったSMAP森且行
- 他の3人は諸星にこき使われすぎて、ジャニーズ事務所をやめてしまった
本命は本田美奈子?

「本田美奈子」さんとは別れと復縁を繰り返しながら、
1987年~2001年の15年にもなる長い付き合いがあったそうです。
2人の熱愛が報じられたのは1990年の頃でした。
- 本田美奈子の大ファンだったという諸星和己が
猛アタックをして交際することに。 - 双方の所属事務所から交際を反対されていた。
- 最終的には事務所に別れさせられて破局。
本命と思われる本田さんとの恋愛がありながらも、
並行して女性と遊んでいた諸星さん。
当時大人気だったおニャン子クラブの20番~30番代は、
「かーくんゾーン」と呼ばれ全員と深い関係があったといわれています。
その他にも噂になった女性は多数いました。
- 酒井法子
- 飯島直子
- 工藤静香
- 森高千里
- 稲森いずみ
「諸星に近づいたら妊娠するから気をつけろ」
アイドルたちはマネージャーからこのように注意されていたそうです。
落とせない女性はいなかった
と言っていた諸星さんですが、
唯一落とせなかったのは「蓮舫」さんと暴露していました。
- 人とつきあうのが怖い、本当にこの子でいいのかって思う。
- 解散した時いろんな人が一気に去った。
- 交際してもまた女性が去っていくのではという不安がある。
光GENJI解散
大沢樹生と佐藤寛之が脱退

1994年8月光GENJIから大沢樹生さんと佐藤寛之さんが脱退をします。
残りのメンバーで「光GENJI SUPER 5」として再スタートをしたものの、
1995年9月に「光GENJI SUPER 5」は解散となりました。

諸星さんから解散の話をした時は、
メンバーも疲れていて同じ気持ちを抱えていたようです。

解散後はすぐにジャニーズ事務所を脱退して、
個人事務所「株式会社GOLD RUSH K」を設立しています。
2000年には自社音楽レーベル「PINK A ROCK RECORDS」(後の スターズクルー)を設立。
しかしソロ活動はうまくいかずに迷走状態が続き、
貯めていたお金もどんどんなくなっていきました。
独立後仕事が無かった時にビートたけしから誘われて
「たけし軍団」に所属していた過去がある。
しかしこの時たけしに付けられた「諸モロ出し」
という芸名が気に入らなかった為わずか3日で脱退
諸星和己の現在
ビートたけしの勧めで海外へ

解散後に活動が迷走してしまった諸星さんを見たビートたけしさんが、
どっか海外へ行って苦労して来い
このように言ったそうです。
お金がなかったため車を売ってお金に換えて、
2001年5月10日にニューヨークへ移り住みます。
ビートたけしらの推薦を得てグリーンカード(米国永住権)も取得し、
生活の拠点をマンハッタンに置くことになりました。
- 1994年8月2日午前1時40分に、
ビートたけしが起こしたバイク事故の第一通報者である。 - 当日たけしと待ち合わせの約束をしており、
東京都新宿区の安鎮坂付近を走行中に
自損事故を起こして重傷を負っていた人物を発見。 - 乗っていた乗用車の運転手に自身の携帯電話で救急車を呼ばせた。
- その人物は、東京医科大学病院に救急搬送され、
一命を取り留めることができた。 - その人物がたけし本人と知ったのは
翌日テレビのニュースを見てからだったと後に語っている。 - 当時携帯電話が多く普及しておらず、
諸星和己の通報がビートたけしの運命を変えた。
2020年には18年いたニューヨークを離れて、
ハワイに移住していることを公表しています。
日本でもう一度真剣に仕事に取り組もうと、
少しでも近いハワイに移り住んだそうです。
しかしコロナが広がってプランが狂い、
日本での活動をしっかりとスタートできない状態に。

「米国50番目の州・ハワイの50カ所を、50歳を迎えた日からレポートする」
このようなコンセプトでブログを中心に現在は執筆活動もしています。
また色々な企画をしたりするプロデューサーの仕事を行っているようです。
ファンクラブもありグッズ販売も行っているという事で、
昔からのファンも多い諸星さんは現在仕事も充実しているようですね。
- 和田アキ子
- タモリ
- 志村けん
- 明石家さんま
- ビートたけし
- 中尾ミエ
- 前田亘輝
- 河村隆一
- 鶴久政治
- 丸山茂樹
- 辰吉丈一郎
- 三浦知良
- 竹原慎二
- 小錦
元メンバーとの交流
山本淳一、佐藤寛之

元メンバーの山本淳一さんと佐藤寛之さんとは、
諸星さんのツアーで集まった義援金を被災地に寄贈した時に、
ゲストとして2人が登場して共演をしています。(2011年)
また山本さんとは2015年にも「ダウンタウンなう」で共演し、
交流が続いているようです。
大沢樹生

2014年に大沢樹生さんが監督をした映画『鷲と鷹』で、
大沢さんとのW主演として2人は共演をしています。
それまで20年間は連絡先も知らず音信不通だったそうです。
俺らは水と油だから何年経とうが混ざらない。
でもそれは、例えるならばドレッシングだね。
野菜があったら味付けをしたいでしょ?
だからみんな仲の悪い俺たちを好むんですよ(諸星)
キャラクター性が全く違うわけですから。
諸星さんは私の持っていないものを持っていて、
逆に諸星さんが持っていないものを私が持っているという感じ(大沢)
その後も2016年にディナーショーを一緒にしたり、
似ていない者同士だからこそ認め合える関係を築いているようです。
赤坂晃

2019年2月11日赤坂晃さんのソロライブが行われ、
そこに諸星さんがステージに現れ2人の共演が実現しました。
諸星さんの物おじしない性格と、
コミュニケーション能力の高さで、
どのメンバーとも共演を実現させています。
内海光司、佐藤敦啓

内海光司さんと佐藤アツヒロさんに関しては、
ジャニーズ事務所に現在も所属しているため、
グループ名を使用して活動するには事務所の許可が必要です。
2人は他の元メンバーとの共演は難しいかと思われます。
2016年には諸星和己、山本淳一、佐藤寛之、大沢樹生の4人が集まり、
テレビで共演を果たしていますね。



まとめ
光GENJIの諸星和己さんの経歴をみながら、
小さい頃からとアイドル時代と今を振り返ってみました。
彼の喧嘩っ早いところや生意気ととれる性格は、
裏を返せばまっすぐで人懐っこい良い面でもあります。
そういうことも多くの人にかわいがられて、
今もファンが応援し続ける理由だと思われます。
自由に話す諸星さんの存在は今後テレビでも
貴重な存在になっていくのではないでしょうか。