2022年2月21日に逝去された西郷輝彦さん。
西郷輝彦さんの若いころが伝説だらけだったのです。
西郷輝彦(本名:今川 盛揮(いまがわ せいき))
生年月日:1947年2月5日(享年75歳)
出身地:鹿児島県鹿児島郡谷山町
身長:176cm
配偶者:一般女性(1990 - )、辺見マリ(1972 - 1981)、一般女性朋子さん(1990-)
学歴:鹿児島商業高等学校
【画像】西郷輝彦の若い頃がすごい!
「歌謡界の御三家」と呼ばれる

歌手としては、橋幸夫・舟木一夫と共に「御三家」と呼ばれました。
橋幸夫さん、舟木一夫さんとともに歌謡界の「御三家」と呼ばれ、
アイドル歌手の先駆的存在となりました。
ヒット曲を連発し、あっという間にスターダムに駆け上ったのです。

西郷輝彦さんは
1964年から10年連続で「NHK紅白歌合戦」に出場しています。
御三家のファン争い
3人のファン達は、取っ組み合いのケンカをするほど熱を上げ、
3人のスタッフ達は、インタビュー時間の長さや、
3人が登場する雑誌の表紙の写真の大きさなどを巡って争いになっていたそうです。
「(御三家の誰かが)1ミリ大きい!(撮影の時)できるだけ前に出ろ!」って・・・
そんなこと言ったってねぇ(苦笑)
と西郷さんは昔を懐かしんで語っています。
「どてらい男(やつ)」

1973年にはテレビドラマ「どてらい男(やつ)」で主役に抜擢。
大阪立売堀の話。
一流の機械器具問屋前戸文治商店に福井から大阪に出て来た主人公・山下猛造(やました もうぞう)が、
親友の尾坂とともに丁稚として住み込んだストーリーです。
視聴率は35%を記録しました。

西郷さんは、歌手活動に限界を感じ、俳優に転身を決意した後の期待に応えるため、
周囲の反対を押し切り、アイドル歌手のイメージを捨てて、丸刈りにし熱演しました。
この頃の西郷さんは、とにかくスラスラと暗記ができたそうです。
時代劇「江戸を斬る」で主役を務める

「江戸を斬る」(1975~)や大河ドラマ「独眼竜政宗」(1987)などで
俳優としての地位を不動のものとしました。
江戸を斬るくん、
— サンマ(1日1アイドルさん) (@Inac13AB) June 10, 2020
本日最終回でしたが、
明日からは「江戸を斬るⅤ」放映です。
今日まで放映してたのは「江戸を斬るⅣ」でした。
西郷輝彦さんは小さい頃のアイドルだったし、
松坂慶子さんは永遠の美少女です。
まずないとは思うけど、
松坂慶子さんがCreamに掲載されたらチェキ付き買い占めます。 pic.twitter.com/IrjKqktyLI
あぁ…西郷輝彦さん、亡くなったのか(´;ω;`)
— ゆうこ☆Junho (@junho_jr) February 21, 2022
私は小学生から時代劇が好きで、江戸を斬るが1番好きだった…
そっか…
西郷さん、本当にお疲れ様です。ここまで頑張ってすごいです!
やっぱかっこいいです!
ご冥福をお祈りします。 pic.twitter.com/WwlYeK5W9C
「西郷輝彦チャリティーショー」で死者が出る

1965年の西郷輝彦さんが18歳の頃。
「西郷輝彦チャリティーショー」(帰郷ショー)に
12000人が会場に詰めかけました。
観客が入場口に殺到し、
整理の警察官1名が死亡、観客13名が負傷するという事故が起きています。
楽屋の窓ガラスが石を投げられて割られるなど、取り巻いていた人たちの一部が暴徒化したそうです。
西郷さんは、機動隊の制服とヘルメットを着用させられて、
やっと体育館から出ることができたとのこと。
当時の人気の高さがうかがえます。
「星のフラメンコ」が大ヒット

1966年に発売した「星のフラメンコ」は、30万枚を売り上げる大ヒットとなりました。
いくつかの歌手によるカバーのほか、タモリ(曲名は「肉のフラメンコ」)や
CMなどにパロディー化もされています
(本人出演のテレビCMでのセルフパロディーもある)。
肉のフラメンコ歌詞一部(タモリ作曲)
すきやきだけど 肉がないのさ
豆腐とねぎと白滝と
すきやきだけど 肉がないのさ
豆腐とねぎでごまかそう
また、2008年には、フラメンコの本場であるスペイン出身の歌手・ライートさんが
自身のアルバムでカバーしました。
曲の作成秘話
当時マネージャーだった相澤秀禎氏(後のサンミュージック代表取締役会長)さんと
作詞家で作曲家の浜口庫之助さんと
3人でスペイン・マドリードを訪れ、4日間毎日、劇場でフラメンコを見たそうです。
西郷さんは、その情熱の音楽とダンスに感動して涙が出たとのこと。
西郷さんが、ゆったりとした優しいメロディーの青春歌謡曲が続いたため、
そろそろビートの効いたリズム感あふれる歌を歌いたかった西郷さんは
この曲をイメージして歌いたいと思い、3人で納得したそうです。
西郷輝彦とは
小学6年から俳優を志す

鹿児島商業高校1年の時に映画会社に応募しました。
その際の写真を撮ったのが鹿児島市高麗町のMBC南日本放送の正面玄関でした。
この応募は実らず、高校を中退して単身大阪へ。
西郷さんは、これまでの貯金と友人達がカンパしてくれた分を合わせた6千円ほどを持って、
西鹿児島駅から急行「高千穂」で神戸へ旅立ったそうです。
(友人たちは、「俺たちの分も頑張ってくれ」と言って送り出してくれたそうですが、
この6千円は、ほとんど汽車賃に消えてしまったそうです)
歌手になればいつか俳優の道も開けるかもしれないと思ったそうです。
その後バンドボーイをしながらそのチャンスをうかがっていました。

ヒッチハイクをして神戸まで行ったそうですが、
その際に載せてくれたトラックの運転手をデビューしても探していたそうですが
結局見つからなかったそうです。
下済み時代のいじめ
「ナンバ一番」のコンテストで落選した後は俳優としてスカウトされました。
その後東京の俳優の家で住み込みで働くことになるも、トイレ掃除を命じられました。
トイレ掃除が嫌で3日も経たないうちに飛び出したそうです。
バンドボーイ時代には、
- 夜も起こされ扉を締めて温度調節を命じられる
- 寝ている間に人の便を鼻につけられる
など嫌がらせを毎日されていましたが、
家族の応援を受け続けることができました。
ふなっしー好き

がん再発から復帰した俳優の西郷輝彦さんが、2017年12月31日放送の
「ダウンタウンのガキの使いやあらへんで! 大晦日年越しスペシャル!
絶対に笑ってはいけないアメリカンポリス24時!」で、
ふなっしーを熱演しました。
その時の映像がこちらです。


同特番の収録時は骨にも数カ所、転移が見つかり休業して治療を受け入院中だったとのこと。
(ふなっしーを)死ぬほどやりたかった。ファンだったから。
(医者に)死んでもやるよ。リハーサル2時間、本番2時間、僕に時間をくださいって(お願いした)
その後日ダウンタウンデラックスで語っています。
鹿児島県民から愛されている
地元民の西郷輝彦さん愛がすごい😲!!800人の会場は超満員で立ち見が30人!更に会場外でライブビューイング😱!!義母のお誘いで軽い気持ちで来てびっくり!! pic.twitter.com/qIMH3x0NbI
— 🐰ぴょんきち® (@nmnlyy) October 27, 2018
まとめ
西郷輝彦さんが人間味にあふれていて、
お世話になった人を必ず探そうとすることや
笑顔でインタビューに応じる様子
様々な決断を繰り返しながら世の中に対応してきたことを知れました。
西郷輝彦さんがどんなに人気だったか、
皆に愛されていたということを実感します。