世界的スターとして知られる坂本九さん。
どんな経歴や生い立ちの方なのでしょうか。
今回は、妻・由紀子さんとの出会いや
ヒット曲秘話など、
坂本九さんについたWiki風にまとめたいと思います。
坂本九のWiki風プロフィール・経歴や生い立ちは?
9番目の子供として誕生

https://www.fnn.jp/articles/-/1125
出生名:坂本九(さかもと ひさし)
本名:大島九(おおしま ひさし)
生年月日:1941年12月10日
出身地:神奈川県川崎市川崎区
死没:1985年8月12日(43歳没)
職業:歌手、俳優、タレント、司会者
川崎市の荷役請負業「丸木組」の社長であった坂本寛の
9番目の子供とした誕生した坂本九さん。
名前のネタがなくなってきたために、
「九」と命名されたと言われています。
子供時代は第二次世界大戦中であったため、
母の実家のある茨城県笠間市に疎開していたそうです。
高校生の時に両親が離婚し、
母親に引き取られたため、
大島の姓になっています。
遭難死を逃れていた
1943年10月26日、常磐線土浦駅列車衝突事故により、
客車1両が桜川へ水没し110名が命を落としました。
坂本九さんは疎開先に向かうため、
この車両に乗り合わせていたといいます。
しかし、事故直前に他の車両に移ったために、
水没事故を逃れたといいます。
なおこの事故は、
日本鉄道事故史上6番目の死者数なんだそうです。
しかし当時は戦時中のため、
全国に報じられませんでした。
坂本九さんも、
大きくなってからこの事故について
知らされたそうです。
エルヴィス・プレスリーに憧れた高校時代

Wikipediaより
日本大学高等学校に入学した
坂本九さんは、
ロックン・ロール(ロカビリー)に夢中になります。
エルヴィス・プレスリーに憧れ、
仲間内で物まねを披露していたといいます。
ロックン・ロールは、
当時は流行に敏感な若者の間で流行り始めていましたが、
不良の音楽とも言われていました。
バンドの一員として活動

https://ameblo.jp/1992-kinki-1997/entry-12417228823.html
坂本九さんは、
当時ロカビリーバンドとして活動していた
井上ひろしとザ・ドリフターズに加入。
ボーカルとギターを担当しました。
いかりや長介さんや、
志村けんさんなどのメンバーがまだいない頃の
ドリフターズですね。
しかし高校生の坂本九さんは、
芸能界の厳しさを経験し、
わずか6ヶ月で芸能界を休業。
学業に専念することにしたといいます。

その後プロダクションのスタッフは、
坂本九さんを説得し、
ダニー飯田とパラダイス・キングの一員として、
デビューさせますが、
ヒットには至りませんでした。
スーパースターとして知られる坂本九さんですが、
バンド時代はあまり評価が高くなかったようですね。
ソロに転身し大ブレイク

https://www.kyusakamoto-music.com/profile.html
1960年に東芝音楽出版に移籍した坂本九さん。
デビューシングル「悲しき六十才」が
さっそく10万枚のヒットを記録します。
そして翌年の1961年、「上を向いて歩こう」を発表。
NHKバラエティー番組「夢であいましょう」で放送され、
レコードが発売されると爆発的大ヒットとなりました。

さらにこの楽曲は「SUKIYAKI」として、
海外でもリリースされ、
アメリカのビルボードチャートで
3週連続1位を獲得するほどの
大ヒットとなったのです。
ちなみに日本人で
ビルボードチャートで1位を獲得したアーティストは
前にも後にも坂本九さんだけです。
「上を向いて歩こう」秘話

Amazonより
空前の大ヒットとなった「上を向いて歩こう」には、
いくつか誕生秘話があります。
永六輔の失恋ソング?

作詞を手掛けた作詞家の永六輔さんは、
当時安保戦争での敗戦に落ち込み、
日本が在日米軍を優遇する条約に屈したことへの嘆きを
歌詞に込めたと言われています。
しかし同時に失恋ソングであるという説もあるそうです。
永六輔さんは、
当時惚れ込んでいた女優の中村メイコさんが
婚約したことを知り、
泣いてしまったといいます。
これに困った中村メイ子さんが父親に相談したところ、
「今日は上を向いてお帰りなさい。
涙がこぼれないようにね」
くらい気の利いたことを言うんだぞ
と言われたといいます。
メイコさん六輔さんにその通り伝え、
これが歌詞に生かされたという
有名なエピソードがあります。
いずれにしても、
嘆きや悲しみの歌詞が、
激動の時代を生きる日本人の心の刺さったのでしょうね。
ぶっつけ本番で初披露した

この楽曲は、
作曲をした中村八大さんの
「第3回中村八大リサイタル」で
坂本九さんの歌唱によって初披露されました。
しかしこの時、
坂本九さんはリサイタルのたった2時間前に
譜面を渡されたそうです。
ぶっつけ本番で歌うことになった坂本九さんは、
・4ビートを8ビートで歌った
・音程を外してマイナーになった部分がある
・わざと一拍送らせて歌った
このようなアレンジをしたといいます。
そして中村八大さんは、
敢えてこのアレンジを修正することなく採用。
これが大ヒットに繋がったと言われています。
独特な歌唱法がウケた

洋楽に憧れ影響を受けてきた坂本九さんは、
邦楽と洋楽の要素を用いた、
独特な歌い方をされていました。
「上をむいて」の歌詞の部分で、
「ウフエヘヲホムフイテ」のように、
言葉の裏の音を発音した歌い方は、
保守的な日本の歌謡界からは、
当時あまり受け入れられなかったそうです。
ところが海外での大ヒットにより、
日本でも広く受け入れられるようになったといいます。
女優の柏木由紀子と結婚

https://news.ameba.jp/entry/20170814-406
坂本九さんは1971年、29歳の時に、
女優の柏木由紀子さん(当時23歳)と結婚しました。
柏木由紀子(73)さんは後に
TBSラジオ「生島ヒロシのおはよう定食/一直線」で
お二人の出会いについて語っています。
由紀子さんは、
同じ撮影所で別のドラマを撮っていた坂本九さんから、
お昼休みに電話番号を書いたメモをもらったそうです。
坂本九さんは、
この時由紀子さんに一目ぼれしたと言われています。
本当に美人で可愛らしい柏木由紀子さん。
坂本九さんが一瞬で魅了されたのも納得です。
1年も電話しなかった

https://ameblo.jp/6008473/entry-12616168149.html
由紀子さんは携帯電話もなく、
特に用事もなかったため、
電話する機会がないまま、
1年も経ってしまったそうです。
しかし、
1年後にたまたま仕事で大阪に行った時に、
坂本九さんが梅田コマ劇場に出演していることを知り、
思い切って陣中見舞いに行ったそうです。
坂本九さんはとても喜んでいたといいます。

その後住んでいる場所が近かったため、
行き来するようになったそうです。
携帯電話もメールもない、
昭和の時代ならではの恋愛という感じがしますね。
そして自然な流れで結婚に至ったそうです。
二人の娘を授かる

https://www.yomiuri.co.jp/national/20210808-OYT1T50044/
その後坂本九さんと由紀子さんは、
二人の女の子を授かりました。
長女:大島花子(1973年10月7日生まれ)
次女:大島舞子(1976年11月10日生まれ)
お二人とも芸能界に入り活躍され、
現在は由紀子さんと一緒に、
「ママエセフィーユ」というユニットで
活動されています。

https://www.sanspo.com/article/20171207-332R2WIOVVLCTAJS6JNKGQ3CGM/

日航機墜落事故により死亡

1985年8月12日に起きた日航機墜落事故。
520人もの命が奪われた中、
坂本九さんもその犠牲となりました。
大阪在住の元マネージャーが
羽曳野市議会議員選挙に出るため、
その応援として事務所開きに駆けつけようと、
羽田空港発、伊丹空港行きの日本航空123便に搭乗。
墜落事故に巻き込まれてしまいました。
43歳という若さでした。

いつもは日本航空に乗っていなかった?

坂本九さんは国内で飛行機に乗る時には、
全日空 (ANA)を使うというこだわりを持っていたそうです。
しかしこの時は、
たまたま全日空 (ANA)が満席だった為、
仕方なく日本航空 (JAL)を利用することになったのです。
坂本九さんは、
事故の1週間前にこの件を知らされていたといいます。
事故前に不可解な行動をしていた?

Amazonより
突然の死を迎えた坂本九さん。
後に妻・由紀子さんの証言などから、
事故の前にいくつか不可解な行動をとっていたことが
明らかになっています。
・事故当日の朝「飛行機に乗りたくないんだよね」と
飛行機を拒否するような発言をしていた
・事故の前日、目をつぶって娘を抱きしめていた
・普段とは違う表情で家を後にした
・予定にない歌「心の瞳」(妻や家族への愛の歌)を歌った
これらの行動を見ると、
何か感じ取っていたのかもしれない
と思わずにはいられませんね。


まとめ
今回は坂本九さんの経歴について調べてみした。
洋楽に影響を受けていたこと、
ヒット曲の秘話や奥様との出会いなど、
興味深い人生を歩まれてきたことがわかりました。
坂本九さんの名曲を聴くときには、
このような生い立ちも思い出したいですね。