朝ドラ「ブギウギ」の放送がスタートし、
注目されている戦後のスター、笠置シヅ子さん。
彼女の最大のヒット作となった「東京ブギウギ」にも、
改めて注目が集まっています。
今回は名曲「東京ブギウギ」が戦後大ヒットした理由について、
当時の背景と合わせて調べてみました。
東京ブギウギが戦後大ヒットした理由と背景は?
ブギウギの意味は?
「東京ブギウギ」の「ブギウギ」とは
どんな意味なのでしょうか。
これは音楽ジャンルの1つです。
主にピアノでブルースを演奏する時に用いられるもので、
- 低音(ピアノの左手)は1小節に8つのビートを規則的に刻む
- 高音(ピアノの右手)は装飾的な音型を即興で弾く
というのが基本形です。
- 20世紀初頭にアメリカ南部で発生
- 1940年代にダンス音楽として流行
- 日本では第2次世界大戦直後に流行
このような歴史があるそうです。
クリアアサヒのCMソングでおなじみ
最近知られている「ブギウギ」と言えば、
クリアアサヒのCMでしょう。
クリアアサヒが家で冷えてる~♪
というフレーズがおなじみですよね。
この曲は「東京ブギウギ」の替え歌です。
笠置シヅ子はブギの女王と呼ばれた
「東京ブギウギ」を大ヒットせた笠置シヅ子さんは、
その後、
- 「大阪ブギウギ」
- 「買物ブギ」
などの「ブギ」シリーズをリリースしています。
出す曲はいずれも大ヒット。
ブギの女王と呼ばれ、
当時の日本歌謡界のトップに君臨していました。
東京ブギウギ大ヒット理由①底抜けに陽気なメロディー
「東京ブギウギ」が発売されたのは1947年です。
1945年に敗戦し焼け野原になった日本。
飢えずに生きていくことだけで精一杯という状況の中、
「東京ブギウギ」の底抜けの陽気なメロディーが、
暗く沈んだ人々の心を励まし、
明日への活力を与えてくれるものとなりました。
これが大ヒットした理由の1つでしょう。
「リンゴの唄」とは違う明るいメロディ
終戦直後に大ヒットした並木路子の「リンゴの唄」。
明るさを取り戻していこうという歌詞と
切ないメロディーが人々の心を掴みました。
「東京ブギウギ」はそんな「リンゴの唄」とは違う、
陽気な明るさがあります。
終戦から少し時間が経ち、
新しい時代に目を向けようという気持ちになってきた
人々の気持ちに上手く寄り添うメロディー
だったのかもしれませんね。
日本人の活力になる歌を
服部良一さんは、
敗戦で深い悲しみの中にいる日本人に、
力強く活力になる音楽を提供することが、
作曲家である自分の仕事だ
と考え曲のイメージを膨らませていたそうです。
服部良一は昭和の日本の歌謡界を代表する作曲家。
笠置シヅ子の楽曲をはじめ、
「別れのブルース」(淡谷のり子)「銀座カンカン娘」(高峰秀子)など、
現在も親しまれている曲を多数生み出しました。
はじめ服部さんは「焼け跡のブルース」という
ブルースを思いついたといいます。
しかしジャズ評論の第一人者・野川香文から、
今はブルースを作る時期ではない
もっと明るいリズムで行くべきだ
と言われて思いついたのが、
以前出会ったという「ブギウギ」だったです。
そして完成した「東京ブギウギ」の
陽気で明るく心がウキウキするようなメロディーは、
多くの人の心を掴み大ヒット。
服部さんが思い描いた通り、
「東京ブギウギ」は敗戦後の日本人の
復興ソングとなったのでした。
笠置シヅ子の苦境を吹き飛ばすような歌を
後述しますが、
「東京ブギウギ」が発売される前の笠置シヅ子さんは、
人生のどん底にいました。
- 戦時中、彼女が歌うジャズは敵国の音楽となり活動の機会を失う
- 交際していた吉本穎右が死去し、その数日後に娘を出産
このような壮絶な人生の中にいたのです。
公私共に彼女の支えてきた服部良一さんは、
彼女が苦境を吹き飛ばしカムバックするために、
躍動感あふれるブギウギを書き上げたそうです。
東京ブギウギ大ヒット理由②アメリカ生まれの音楽
敗戦後の日本に活気と希望を与えてくれたのは、
皮肉にも敵国アメリカで生まれた陽気な音楽でした。
この「アメリカ生まれの音楽」ということも、
「東京ブギウギ」大ヒットの一因と言われています。
アメリカへの憧れが芽生え始めていた?
この楽曲が発売された頃は、
アメリカの音楽や文化を取り入れた作品が、
徐々にヒットし始めた時期だったという背景があります。
アメリカに対して敵対心を抱くのではなく、
憧れを感じる心情に変化してきたのでしょう。
アメリカ文化に触れることに、
ワクワクしたりエネルギーを感じていた時期だったのだと思います。
そのような人々の心情の変化もあり、
アメリカ生まれのブギウギを取り入れた「東京ブギウギ」は、
大ヒットに繋がったのでしょう。
東京ブギウギ大ヒット理由③派手なダンスパフォーマンス
「東京ブギウギ」は陽気が楽曲というだけでなく、
派手なダンスパフォーマンスも特徴です。
これも大ヒットの理由の1つと言えるでしょう。
踊って歌う歌手はいなかった
「東京ブギウギ」もパフォーマンスは、
今の時代に見たら驚くような派手さはないでしょう。
しかし、当時の日本の歌謡界では、
直立不動で歌う歌手しかいなかった
という時代背景がありました。
躍動感あるリズムに乗って、
歌いながら踊る笠置シヅ子さんのパフォーマンスは、
革命的なものだったのです。
当時の人々は、
笠置シヅ子さんが華やかに踊る姿を見て、
そのパワーに圧倒され魅了されたといいます。
東京ブギウギ大ヒット理由④笠置シヅ子の魅力
「東京ブギウギ」が空前の大ヒットになったのは、
楽曲の良さだけでなく、
笠置シヅ子さんの魅力が大きな要因です。
- 身長150cmの小柄ながらダイナミックに踊る姿
- 明るく派手なメイク
- パワフルな歌声
- 抜群のリズム感
このように、
魅力的なルックスで実力もある笠置シヅ子さんは、
戦後の日本を明るく照らすような存在で、
一躍大スターになったのでした。
実力あるシンガーだった
小学校卒業後に「松竹楽劇部生徒養成所」に合格し、
初舞台を経験。
数々の舞台を経験し「松竹歌劇団」に参加したのがきっかけで、
服部良一さんと出会ったといいます。
この時すでに笠置シヅ子さんの評判を聞いていた服部さんは、
期待して彼女に会ったそうです。
しかし現れたのは貧相な女の子だったといいます。
ところが舞台に立つと、
圧巻のパフォーマンスを見せたといいます。
服部良一さんは、
動きの派手さとスイング感は、
他の少女歌劇出身の女の子たちとは別格だと感じた。
なるほど、これが世間で騒いでいた歌手かと納得した。
と語っています。
見た目の可愛らしさだけでなく、
実力派シンガーだったという背景も、
「東京ブギウギ」大ヒットの一因であることは間違いありませんね。
東京ブギウギ大ヒット理由⑤夜職の女性に支持された
「東京ブギウギ」が大ヒットしたのは、
夜職の女性たちが笠置シヅ子さんを支持した
という背景もあったと言われています。
33歳でシングルマザーに
「東京ブギウギ」が発売された時、
笠置シヅ子さんは33歳。
女児を出産したばかりのシングルマザーでした。
笠置シヅ子さんは、
9歳下の吉本穎右(よしもとえいすけ)と交際し、
妊娠していました。
吉本穎右は、吉本興業の創業者である吉本せいの次男です。
笠置シヅ子さんは
吉本せいに認めてもらえなかったため、
結婚することはありませんでした。
もともと病弱だった穎右さんは、
22歳で結核を患い24歳で他界。
笠置シヅ子さんはその数日後に女児を出産し、
シングルマザーになるという壮絶な人生の中にいました。
幕間に授乳して舞台に戻るという生活。
悲しみを振り払うかのように仕事に没頭したといいます。
パンパンから絶大な支持を得る
幼子を抱えてショーに出続ける笠置シヅ子さんの姿は、
生活のために身を落としたパンパンと呼ばれる女性たちから、
絶大な人気を得ることになります。
パンパンとは、
戦後混乱期の日本において、
米兵を主な相手として売春を行なった街娼を意味する言葉。
1947年時点で、東京に3万人、
六大都市合計で4万人のパンパンがいたと言われています。
彼女たちの大きな力もあり、
笠置シヅ子さんは「ブギの女王」と呼ばれるまでになったそうです。
まとめ
今回は「「東京ブギウギ」が戦後大ヒットした理由について
調べてみました。
終戦後の時代背景と絶妙にマッチした曲であったこと、
笠置シヅ子さんの苦境が当時の女性に勇気を与えたことなど、
様々な要素が重なり大ヒットに至ったことがわかりました。
この曲を聴くときには、
このような背景を思い出してみてくださいね。